はじめに |
40億年前、生命は灼熱の海で生まれました。たった一つの細胞からできた原始的な生命は、より複雑なものへと進化の道を歩みはじめます。やがて私達の祖先となる動物が現れました。そして、地球環境の変化と共に、陸という新世界を目指しました。地球に生命が誕生して40億年、私達人類は、その進化の果てに生まれてきました。そして、今私達はふるさとである地球を離れて宇宙へと飛び出そうとしています。もてる知識と技術を導入して、火星を第2の地球に変えようという壮大な計画です。人類は他の生命とは違う、強大な力を手にしています。その力は、どのようにしてもたらされたのでしょうか?そして、人類はどこに行こうとしているのでしょうか? |
私達は、この「生命の扉」で、地球の環境の変化とともに様々な生命が生まれ、あるいは絶滅していく様子を見てきました。今回は、いよいよ私達自身についてです。私達人類は、現在56億人を越えています。私達のような大型の動物が、これだけ多く世界中の様々な環境に広がっているのは、それまでの生命の歴史には例のないことです。しかも今や地球環境や、他の生命に大きな影響を与える存在にまでなっています。
しかし、私達人類が地球に登場したのは、ごく最近のことに過ぎません。最初の生命が誕生したのは、今から40億年前。動物や植物の元になった細胞が生まれたのは、今から20億年前のことでした。私達脊椎動物の祖先が登場したのは、今から5億年ほど前、陸上に上がったのは3億7千万年前のことでした。そして、私達と同じ現代人が登場したのは、わずか10万年前です。
生命の歴史を1年間とすると、私達現代人が登場したのは、12月31日、大晦日の深夜11時47分。私達の歴史はまだ13分にしか過ぎないのです。20万年前から、私達の脳の大きさや体の特徴は、何も変わっていません。しかし、その間に文明を築きあげ、地球の環境を変えてしまうほどの巨大な力を持つようになっていたのです。それは、これまでの生命がたどってきた進化とは、全く違う新しい型の進化なのです。その進化とは、一体どのようにもたらされたのでしょうか?
500万年前、アフリカの森で私達人類の祖先が生まれました。最初の人類は、ほとんどサルと同じ能力しか持っていませんでした。しかし、草原に出た人類は、その後次第に脳を大きくしていきました。10万年前、私達と同じ脳の大きさや体の特徴を持つ現代人が登場しました。人類は、アフリカ大陸だけではなく、アジア・ヨーロッパ、オセアニアへと、次々と新しい土地に進出していきました。およそ1万8千年前には、既にシベリアなど北極圏にも住んでいました。
この頃の地球は、氷河期の真っ只中でした。極寒の大地を人々は北へ北へと移動していきます。当時シベリアには、トナカイなど獲物になる大型の動物が、数多くいたといわれています。
北への移動は新たな獲物を求める旅だったのです。槍に使われた鋭くとがった刃。当時の石器を見ると、狩猟の技術が相当進んでいたことがわかります。2万年前に作られた最古の針が発見されました。鹿の角などで出来たこの針は毛皮を縫い合わせて服を作るためのものでした。当時の人類は、厳しい寒さの中でも生きぬく知恵を、既に身につけていたのです。
人類がユーラシア大陸の東の果てへたどり着いた丁度そのころ、氷河期がもたらした偶然が、新たな道を拓きました。氷河が大量の水を封じ込めたため、海の水位が下がり、シベリアとアラスカは陸続きになっていました。こうして人類は新天地、北米大陸へと渡って行ったのです。この頃から、気温は少しずつ上昇していました。大陸を覆っていた氷河は、徐々に溶けていきました。およそ1万2千年前、氷河が広がっていた場所は草原や森に変わっていました。暖かくなっていった北米大陸は、豊富な獲物に恵まれていたと考えられています。
アリゾナ州立博物館には、当時の人類の活動を示す証拠が残っています。マンモスの骨、この骨と一緒に石器が見つかっています。首筋や肋骨の間などに食い込むような形で、たくさんの石器が残されています。巨大なマンモスに、当時の人類が集団で立ち向かい、命懸けで格闘した様子をうかがう事ができます。アリゾナ大学のポール・マーチン博士は、北米大陸に渡ってきた人類は、豊富な獲物を次々に取りつくしていったのではないかと考えています。
ポール・マーチン博士:当時の人類は、北極圏での生活をとおして、大型動物をたやすく捕らえられるほど、狩猟について十分な経験を積んでいたはずです。その彼等が目にした北米大陸という新世界は、まるでエデンの園のような楽園に見えたのではないでしょうか?なぜなら北米大陸にいた動物達は、人類という狂暴な殺戮者には出会ったことがなかったからです。
巨大なマンモスをはじめ、古代バイソンやオオナマケモノなど、大型動物が次々と獲物になっていきました。人類は、獲物を追って南米大陸にも広がっていきました。南端まで達する迄に、わずか数百年しかかからなかったと、マーチン博士は指摘しています。アルゼンチンの南、パタゴニア平原。この洞窟の壁には、一面に赤い染料で様々な動物が描かれています。
狩猟採集生活では、一人を養うのに10K㎡の土地が必要だともいわれています。人口が増えるたびに、常に新しい土地が必要になるのです。こうして人類はあっという間に世界中に広がっていったのです。当時の人口は、500万から1千万人と推定されています。狩猟生活を続ける限り、人口をこれ以上増やすのは困難だったと考えられています。
この頃地中海沿岸、現在のシリア北部で、人類を大きな飛躍へと導く第一歩が始まっていました。なだらかな丘が続くこの当たりには、1万年以上前の「村」の遺跡が点在しています。人類は、誕生以来移動しながら獲物を追う「狩猟採集生活」を続けてきました。しかし、ここでは1年をとおして同じ場所で暮らす「定住生活」が始まっていたのです。
当時の「カマド」の跡が残っています。この「カマド」も、定住生活をしていたことを示す証拠の一つです。様々な遺跡の発掘調査が進むにつれて、当時の環境や人々の暮らしが明らかになってきました。定住生活は、どのようにして始まったのでしょうか?エール大学のムーア博士は、ここでも気候の温暖化が関係していると考えています。
アンドリュー・ムーア博士:1万5千年前ごろから、気候は次第に温暖化になってきました。気温は上がり、雨が多くなったと考えられます。それが、荒れた大地を森林や草原に変えたのです。こうした環境の中で、恵まれた「狩猟採集生活」を行うことができました。人口は増加しました。そして私達が調査を行っている「村」の人達は、特に豊かな食料に恵まれていたので、定住という新しい生活を始めることができたのです。
乾燥して荒れていた大地には、草原や森林が広がっていきました。草原にはたくさんの野生動物が住み、森には豊富な木の実がありました。1年を通して常に食料に恵まれていた環境が「定住生活」を可能にしたのです。ムーア博士が再現した当時の住居では、ポプラの木の柱を立て、アシを利用して壁や屋根を造っていきました。こうした家が何軒も連なり、村を造っていったと考えられています。豊かな実りに支えられ、村の人口はどんどん増えていきました。
しかしその時、シリアから遠く離れた北米大陸では、大きな異変が起きて始めていました。当時北米大陸を覆っていた氷河は、気温の上昇と共にゆっくりと後退を続けていきました。氷河から溶けだした水が、やがて集まって湖を作りました。こうして北米大陸の中央に、巨大な湖が出現したのです。
そこには、膨大な量の水がたたえられていました。そしてある日、湖をせき止めていた氷河が崩れ落ちたのです。巨大な湖に溜まっていた水が、一気に溢れ出ました。それは想像を越える大洪水でした。水は、北米大陸を横切って大西洋へと流れ込み、大量の真水が、暖かい海水の上にフタをするように広がりました。この出来事が、地球規模の大きな気候変動の引き金になったと考えられています。
この時起きた気候変動の様子を知る手掛かりが、今も残されています。コペンハーゲン大学のグループは、10年以上に渡ってこの氷河の分析を続けています。グリーンランドには、過去25万年間にできた氷が、厚さ3千Mに渡って積み重なっています。氷の中には当時の大気などの貴重なデータが閉じこめられています。それを分析することによって、過去の気候の変化を、直接読み取ることができるのです。取り出された1万年前の氷を見ると、年輪のように、1年ごとの層に綺麗に分かれています。そのため遠い過去に起きた気候の変化も、克明に知る事ができるのです。
2万年前からの気温の変化を見てみると上昇を続けていた気温は、およそ1万1千年前急激に低下しています。気温は10度近くも下がり、氷河期の一番寒い時期に逆戻りしてしまったのです。この急激な気温の低下は、グリーンランドだけでなく地球全体を襲いました。しかも、1千年も続くという大きな気候変動だったのです。定住という新しい暮らしを始めていたシベリアの村でも、大きな影響が広がっていました。豊かだった森や草原が消え、深刻な食料危機に直面したのではないかと考えられています。アンドリュー・ムーア博士:寒冷化がもっと早く起きていたら、それ程影響はなかったかもしれません。しかし、この時は豊かな「狩猟採集生活」に支えられて、人口はあまりにも増えすぎていました。人々は、まったく新しい生活手段を見つけださなければならなかったのです。
危機に直面した人々は、必死に食料を探したに違いありません。ムーア博士達が発掘した遺跡からは、当時の人々が集めた植物の種子が、150種類以上も見つかっています。その中には、クローバーや馬ごやしの実など、およそ食料となりそうにないものまで含まれていました。村の周辺に生えていた植物のほとんどすべてをかき集めて、食べられるかどうか、一つ一つ試していた様子が伺えます。野生の小麦や豆も見つかりました。こちらの植物は、気候の変化に強く、乾燥や寒さの中でも生きぬく力を持っていました。
植物の花粉をもとに、古代人の環境を分析している安田博士は、気候変動が当時のシリアの人々の暮らしにどんな影響を与えたのか、遺跡周辺の地層を調べています。すると、気温が低下した後の地層から小麦や大麦などイネ科植物の花粉が、大量に見つかりました。多くは野生のものでした。しかし野生のものに交じって、明らかに栽培されたものとわかる花粉が見つかったのです。安田博士は、この花粉こそが、人類の農耕というまったく新しい生活を始めた証拠ではないかと考えています。
安田喜憲博士:1万1千年くらい前に、「寒の戻り」がやって来たのでしょう。そうすると、どうも森の生産物だけに依存して生活していたんでは、ダメになってくるんです。そして草原にあるイネ科の草木を栽培する方向にいったんじゃないかと思われます。つまり気候の寒冷化、これが食料の危機をもたらして、そして人間がやむにやまれず農耕社会、農耕の方に移っていったんではないかと思われます。
突然襲った寒冷化によって、シリアの村は深刻な食料危機にみまわれました。その時、シリアの村の人々は、寒さの中でたくましく生きる小麦と出会ったのです。そして小麦を大量に栽培して食料とする事を考えついたのです。小麦との出会いが、人類が他の生命とは違う道を歩くきっかけとなったのです。
自然の恵みに頼っていた人類は、自ら食料を作り出すという新しい生き方を始めたのです。そして、人類が最初の栽培植物として選んだ小麦は、それにふさわしい理想的な性質を備えていました。
フランス国立科学研究所のウイルコックス博士は、野生の小麦がどのようにして栽培植物に変わっていったのかを研究しています。実際に野生の小麦を育て、10年近くにわたってその変化の様子を観察してきました。その結果、栽培植物として適した性質が、短い時間で生まれる事がわかりました。
ジョージ・ウイルコックス博士:人間が小麦の栽培を始めると、すぐに収穫される小麦に変化が起きたと考えられています。次第に、栽培に有利なものが選択されていったのです。栽培するにつれて、小麦の粒は次第に大きくなりました。次に、小麦を包む殻にも変化が起きていました。殻がはがれやすいものに変わっていきました。こうして粒が大きく脱穀しやすい小麦が生まれていったのでしょう。
野生の小麦は、頑丈な殻に覆われていますが、栽培された小麦は殻が薄く、実が2倍も大きくなっています。植物を人間に有利な方向に変える農耕は、いわばバイオテクノロジーの始まりでもあったのです。博士は、当時の人々が持っていた技術も、農耕を始めるのに役立ったと考えています。石器でできた鎌もそのひとつです。1万年以上前の鎌がヨルダンで発見されました。動物の骨をつかった柄に、石を巧みに割って作った鋭い刃が取り付けられています。切れ味は金属製のものと変わりません。
植物を栽培するのだけでは、農耕は成り立ちません。収穫から加工まで、様々な技術を持っている事が必要でした。小麦を栽培する農耕は、シリアの村だけでなく、その周辺の地域でも、ほぼ同じ時期に始まっています。ヨルダン渓谷で発見されたベイダ遺跡もその一つです。この遺跡で、石臼が大量に見つかりました。これは、小麦を粉にひき、パンを焼くために欠かせない道具です。農耕は自然をコントロールして食料を生産するという、まったく新しい技術でした。
大量の食料が得られる反面、それまでの狩猟採集生活にはない様々な新しい労働も生み出しました。農耕は、人々の暮らしを大きく変えていったのです。1万年前、ほとんど変化のなかった人口が、農耕が始まると急激に増えはじめ、5千年前には1億に達していました。農耕は人類を繁栄へと導く始まりだったのです。
素朴な家が建つ小さな村の中で、農業が始まったといわれています。農業は狩猟採集生活に比べて、遥かに安定に食料を確保できる画期的なものでした。農業というのは、種をまくだけの簡単なものではありません。実は、多くの知識と知恵を生かして、はじめてできる事なのです。
まず、多くの植物の中から気候の激しい変化に耐えられる、小麦という穀物を見つけ出さなければなりませんでした。そして、石臼で粉をひいて、パンを焼くという知恵も必要でした。また、畑には小麦だけでなく、豆も植えられていました。ヒツジやヤギなどの家畜も飼っていました。この組み合わせも、現代に通用する見事な知恵でした。
小麦を植え続けると、土壌が弱って連作障害が発生します。そのため、一緒に豆を植え、土壌改良をしたりしました。家畜の糞も利用されました。農業は、当時の人類が自然や生命に対する知識を総動員して成し遂げた、ビッグなサイエンスだったのです。農業は、人類が生命や地球の環境に手を加えはじめた最初なのです。この時から、人類はまったく新しい形の進化を始めたのです。人類は飛躍的に増え、複雑な社会が生まれ、さらに新しい知識を生み出していくのです。
シリア北部にあるエブラ宮殿。およそ5千年前に造られた古代都市です。人口は20万人を超え、周辺から多くの農産物が集まる取り引きの中心地でした。最古の図書館というべきエブラ王の書庫からは、くさび型文字で刻まれた粘土版が、1万5千枚も発見されました。
大半は税の支払いや土地の所有権、農作物の取り引きなど、経済に関する文書でした。小麦で支払った給与の明細表も見つかっています。これらの文書は、農耕が富を生み、複雑な社会を作り上げていったことを見事に示しています。
エブラ王の富と権力を象徴する金の装飾品、これらの装飾品からは、きらびやかな文化の芽生えが感じられます。農業は、これまでの生命がたどった進化の道とは違う、まったく新しい進化を人類にもたらしました。チグリス・ユーフラテス川沿岸、そしてエジプトやインダス川流域でも、小麦を中心とした農耕が文明を生みました。さらに、中国でもイネを生産する独自の農耕技術が生まれ、古代の文明へと発展していきました。
シリア中部には、1千年以上も前に造られた水車が残っています。高さが30Mもある、この巨大な水車は、灌漑用の水を汲み上げる為に、今も使われています。こうした灌漑技術の進歩によって、農耕による食料の生産量は、飛躍的に増えていきました。水車を動かす巧みな知恵は、現在につながる、さまざまな技術を生み出す元にもなりました。
確かに、18世紀後半から始まった産業革命も、始めは水力を応用した技術が中心でした。そして、蒸気機関などの発明などにより、さらに飛躍的に大きな力が利用できるようになりました。やがて人類は、石炭や石油など、地球資源から膨大なエネルギーを採り出し始めました。農耕によって得られる豊かな食料だけでなく、エネルギーをも自由に使うことによって、現在に至る文明を築いてきたのです。それは自然に手を加え自然をコントロールしてきた歴史でもありました。
農耕を始めてから増えつづけてきた人口は、産業革命をきっかけにさらに飛躍的に伸び、今では56億人を越えるまでになりました。56億人にも増えてしまった人類は、生命としてみた場合、どんな存在なのでしょうか?アメリカ・デューク大学の動物学者、シュミット・ニールセン博士は、人類は今や生命本来の原則からは、大きくかけ離れた存在になってしまったと博士は言います。シュミット・ニールセン博士:人間は、普通の生き物が受けている、食べたり食べられたりする、自然淘汰の原則から、完全にはずれた存在なのです。人間は、自然の法則からはずれ、進化の原則からもはずれた存在なのです。
大自然の中で生きるさまざまな動物たち、彼らは、それぞれ微妙なバランスを保ちながら共存しています。ニールセン博士たちは、「自然に生きる動物達は、数や行動範囲そしてエネルギーの消費量などが、体の大きさによって決まっているという事を発見しました。
例えば、哺乳類のエネルギー消費量を見てみると、体重が増えると、使うエネルギーも一定の割合で増えるという法則があります。人間が使うエネルギーの量は、体重でみるとヒツジとほとんど同じはずです。
しかし、私達は電気やガスなど、様々なエネルギーを使って生活しています。私達日本人を例にとると、一人あたり本来生物として消費する量の40倍にもなります。
私達日本人は、象とほぼ同じエネルギーを使っている事になります。さらに、人間と同じ重さの動物の生息密度を計算してみると、地球上の陸地のすべてに住めたとしても、その数は1億8千万にしかなりません。しかし、私達の人口はその30倍以上にもなっているのです。
膨大なエネルギー消費をする私達56億の人類は、ものすごい勢いで自然を破壊し、これまで地球が貯えてきた資源を食いつくそうとしています。私達はまさに生命の原則から外れた存在なのです。未来予測の専門家として知られるデニス・メドゥス博士は、さまざまなデータを基に、人類の未来を描いています。
デニス・メドゥス博士:ひとつの仮定は、政治や経済、そして社会のシステムがほとんど変化せず、現状のまま進んでいったケースです。その場合私達の未来は、破局が待ち受けているのです。地球は急激に人々を養う能力を失っていくでしょう。まず、農業に大きな影響が現れます。そして、工業生産についても、これまでのように成長を続けていくことは、ますます難しくなっていくでしょう。そして、ついに2030年か遅くても2050年頃には、人口はこれ以上支えられなくなります。死亡率は上昇し始め、これまで増え続けてきた人口は、逆に減っていくでしょう。
成長の限界に行き着こうとしている人類は、その危機を脱することができるのか?今、さまざまなシナリオが検討されています。地球を離れて宇宙に進出しようという、壮大な計画も練られています。火星を地球のような環境に変えて、移住しようというのです。
火星の気温は平均でマイナス60℃、大気は薄く、酸素はほとんどありません。しかし、かつて海をつくっていた大量の水は、現在極地や地下に、氷となって閉じこめられています。この水が、火星を生命の惑星に改造する重要な材料になります。計画では、まず火星の上空に巨大な反射鏡をつけた人工衛星を並べ、火星の極地を覆う氷を太陽の熱で溶かします。水蒸気は火星の表面に広がり、大気の中に溶け込んでいきます。
火星改造計画には、さまざまな技術が動員されます。火星に造った工場から温暖化ガスを放出し、温室効果によって寒い火星を暖めていきます。やがて、大気中の水蒸気は雨となって火星の大地に降り注ぎます。雨は川となり、やがて火星に海がよみがえります。火星に海をつくるまでにおよそ100年、人間が生活できるようになるまでには、さらに10万年という時間が必要です。
NASAエイムズ研究所のクリストファー・マッケイ博士は、永年この火星改造計画を研究してきました。人類の未来を考える時、地球の外に目を向ける必要があると、マッケイ博士は考えています。クリストファー・マッケイ博士:火星改造計画の目的の一つは、人間が住める場所を作るという事です。生命が、地球以外で生き残ることのできる場所を作る事です。私達が知る限り、太陽系で生命が存在しているのは地球だけです。しかし、新天地に種を植えるように、生命を地球の外に広げ、そこに地球と同じ様な生命の惑星をつくることができるのです。
赤い火星の大地には、光合成を行うバクテリアに続いて、植物が運び込まれ、酸素を作り出していきます。こうして火星には、緑の大地と青い空が広がっていきます。そして多くの人々が住む巨大都市を、火星に造り上げようというのです。火星改造計画は、人類が自らの手で第2の地球を作り上げようとする壮大な挑戦なのです。しかし、その実現のためには、私達の住む地球を知る事から始めなければなりません。それまでに40億年の歴史を紡いできた生命は、生き残るための新たなフロンティアを手にすることができるのでしょうか?
地球の生命は、どのようなシステムを作れば生きていけるのか?具体的な研究も始まっています。アメリカ・アリゾナ州、バイオスフィア2と名付けられたこの施設には、地球の生態系がそのまま再現されています。
1万3000㎡もある巨大なガラスドームの中には、3800種類の動植物が入れられ、熱帯雨林や海まで造られています。この施設は、外界から完全に遮断され、植物や水は、施設の中だけで自給できるように、設計されています。
酸素を補給する植物は、たっぷりと植えられました。1991年9月、8人の男女が、この人工生態系の中で生活を始めました。実験は順調に進んでいるように見えました。しかし、思わぬ事態が進行していたのです。酸素濃度がじわじわ低下し、ついには生存にかかわるほどまで下がってしまったのです。関係者は必死で酸素低下の原因を追求しましたが、なかなか突き止める事ができませんでした。
バイオスフェア2で、なぜ酸素濃度が低下したのか?その後さまざまな角度から研究が行われました。そして、最後に、施設の中にあった土が調べられました。分析の結果この土が酸素をどんどん吸収していた事がわかったのです。植物を育てるため、栄養分の豊富な土が持ち込まれていました。そのため、土の中には無数の微生物が繁殖し、呼吸のため予想以上に大量の酸素を使っていたのです。
リンダ・リーさんは、植物の担当者として、当時実験に参加しました。彼女も酸素濃度低下の原因が、まさか土にあったとはわからなかったと言います。リンダ・リーさん:この土の中には、有機物がたくさん含まれていました。それが微生物によって分解されるまでには10年、いえ20年以上もかかるかもしれません。そうなって初めて、土の状態が安定し酸素の量も安定するのです。実験に参加して感じたことは、地球を知り、理解することがいかに難しいかということだったのです。
バイオスフィア2の実験は、地球と生命が織り成す生態系が、いかに複雑なものであるかを教えてくれました。地球環境にとって大切な役割を担っている熱帯雨林についても、そこにどれだけの生物がいて、どのように関わって生きているのか、私達はまだよくわかっていないのです。火星に生命の世界を築こうという計画も、地球と生命のことを知らなければ、実現することは不可能なのです。クリストファー・マッケイ博士は言います。
クリストファー・マッケイ博士:この計画を研究する理由のひとつは、実は地球を理解する為なのです。火星に生命の世界を作ることを考えることで、逆に地球と生命のことを知る事ができるのです。きちんと学ばないと、悲惨な結果になります。好むと好まざるとにかかわらず、人類はこの地球と生命にたいして大きな責任があります。人類の影響はあまりにも大きく、もはや地球の自浄作用に任せておくわけにはいかないのです。
ですから、私たちはもっと生命について、学ばなければならないのです。人類は、20世紀に宇宙に進出しました。そして、無限に広がる世界と考えられてきた地球が、実は小さな惑星にしかすぎないことを実感したのです。地球を包む青く輝く大気、その中で生命は共に生きています。私たちは、宇宙に出たことで初めて地球の大切さを知ったのです。
農業を始めた1万年前、人類はまったく新しい進化の道を歩み、今の繁栄を導くことになりました。しかしそのことが今、人類が直面するさまざまな問題をもたらすことになったのです。人類は21世紀には100億人を越えるといわれています。もはや、このままの勢いで増え続けていくことはできないのです。私たちには、さらに新しい進化が求められているのかもしれません。
農業を始めて以来、私たち人類は、地球環境や他の生命に手を加え、コントロールしようとしてきました。しかし、私たちは、その地球や生命について、ほとんど何も知らないことに気付いたのです。宇宙に出るようになった今、初めて地球と生命が織り成すシステムが、いかに複雑かということに気がついたのです。
40億年の生命の歴史の上に、今の私たちがあります。人類の未来を切り開く新しい進化の道は、何よりもまず、地球や生命のことを知る事から始まるのではないでしょうか。1万年前、農耕を始めたことで、大きな飛躍を成し遂げた私たち人類は、さらなる飛躍への道を探し出せるのでしょうか?その道を見い出すために、私たちは、これまでとは違うまったく新しい知恵を、生み出さなければならないのです。
これで、「生命の扉」は完了です。生命の進化の歴史を考えた時、遺伝子DNAの進化の過程とイコールといっても過言では有りません。生命は、生き残る為の遺伝子をいかに多くコピーしながら進化するか?という歴史の中で進化してきました。
イギリスのオックスフォードで研究を続けているリチャード・ドーキンス博士は、「利己的な遺伝子」「ブラインド・ウォッチメイカー」など、生命の進化をテーマとした著書で有名ですが、博士によると「あらゆる生命は遺伝子の乗り物として存在しており、遺伝子の生き残りのために存在していると考えることが出来ます。遺伝子はそれぞれの遺伝子のコピーを残すことを目的にその乗り物を動かし、その数を増やす方向に働くのです。
人類は遺伝子で見る限りは、生命の歴史の延長線上にあります。遺伝子には生き残るための情報が書き込まれていますが、これは初期の生命から人類に至るまで、さまざまに枝分かれはしてきましたが、基本的な部分は同じです。生きるための情報を作り出し、蓄積する極めて巧妙な装置と見ることが出来ます。
一方で、人類は脳という新しい情報装置が遺伝子とは別に進化を続けたわけです。その結果、あらゆる生命に働いてきた自然淘汰という法則に逆らうことになったのです。遺伝子とは別にこうした装置を持つことによって、人類はそれまでの進化とは別の道を歩き始めたのです。道具や火の使用はすでに狩猟採取生活の時代に生まれていました。しかし、農耕を始めたことによって、定住生活が生まれ、人が増えます。そこで必要になるのがコミュニケーションです。大きな集団で暮らすようになるにつれて、コミュニケーションの必要性が高まり、言語が発達し、文字ができ、新しい情報の蓄積が始まったのです。」
私が思うに「生命の起源と歴史」を振り返ってみますと、そこには明らかに「共に助け合う」という共存のシステムが働いていた事がわかります。恐竜のように「TAKE AND TAKE」で生きてきた生命は、その結果、自然淘汰せざるを得ない状況に陥り、やがては絶滅に至りました。遺伝子とは別に「脳」という観点から考えてみますと、人間には他の生物には無い「大脳新皮質」という特殊な脳があります。この大脳新皮質の働きを考える時、「人間らしい生き方」の答えが見えてくると船井幸雄氏(本の扉に紹介)は断言しています。
21世紀は、精神的な心の進化の時代になると私は考えています。心を進化させ、あらゆる生命体と共に助け合うという意識がなければ、自然破壊に伴う生態系の破壊、オゾン層の破壊による紫外線問題、食糧危機、エネルギー問題など、人類の生存に関わる基本的な問題は解決されない事でしょう。明るい未来を作るのは、私達一人一人の心なのかも知れません。その「心」は遺伝子として次世代の人類へと受け継がれていく事でしょう。- 完 -