ヒマラヤの扉

ディラン峰 7,257m 遠征の記録

はじめに

ヒマラヤの扉について

1989年にパキスタン・ヒマラヤのカラコルム、ディラン峰(7,257M)へ遠征した時のものです。我々は当時未踏の北稜ルートに挑みましたが、力及ばず登頂できませんでした。

日本人にも馴染み深いこの山を世に知らしめたのは、1965年京都府岳連カラコルム登山隊にドクターとして参加した北杜夫の小説「白きたおやかな峰」だと思います。彼は帰国後、遠征の記録をもとに、この本を書き下ろしています。そして、作中の中でこのディランを次ように謳っているのです。

「おとぎの国の魅惑に満ちた特別製の砂糖菓子のように眩く光り輝き、裸身を剥き出しにして一同を差し招く純白のあえかな美女」と。

ミナピン氷河上、アドバンスベースキャンプ(ABC)3,700から見たディラン峰(7,257M)

スカイラインが当時、未踏だった北稜ルート
ウルタルⅡ峰(7,388M)から見た、ディラン峰。中央の赤線が我々が挑んだ北稜ルート。写真提供、1968年日本パキスタンウルタルⅡ峰合同登山隊より
ABCキャンプ 3,700Mから見たディラン峰の北壁。今だ未踏ルートだが雪崩が多く危険極まりない。遠征期間中、一緒になった韓国隊が当初挑んだが断念。
ミナピン氷河上、3,600Mから見たウルタル山群
旧キャンプ1(C1)、4,450Mから見たラカポシ峰(7,788M)赤丸は、旧C1と隊員です
新キャンプ1(C1)の4,800Mから見た北稜のコル。赤丸は新C1と隊員です。コル上までは4ピッチ200Mの雪壁
新キャンプ1から北稜のコルを望む。

この御方は、遠征中一緒だった「弘前大学ディラン登山隊」のTKさんとTNさん。OB隊による遠征
北稜のコル、5,200Mより北稜を望む
ディラン峰北稜上6,050Mより、核心部「ゴジラの背」を望む。赤丸はT先輩
難所の一つ、ナイフリッジの「ゴジラの背」。6,000M付近にて
難所の一つ、ナイフリッジの「ゴジラの背」。6,000M付近にて
6,100M付近。ここで、「ゴジラの背」も終わる!中央上の30M雪壁、大セラックを乗っ越し6,300M地点まで行った。これが我々の最高到達点であった。
リレーキャンプ(RC)、5,350Mにて。
僭越ながら私です。
ベースキャンプ(BC)、タカファリ3,500Mより見た、ラカポシ(7,788M)の朝焼けを望む。絶景かな…望遠レンズにて撮影。
ベースキャンプ(BC)、タカファリ3,500Mより見た、ディラン峰(7,257M)を望む。
ミナピン氷河上3,600Mよりラカポシ(7,788M)を望む。
番外編1、ブロードピーク(8,047M)。K2南東稜より。写真提供T大学
番外編2、マッシャーブルム(7,821M)
写真提供T大学。
番外編3、K2南東稜7,900M付近より見たヒマラヤの展望。

左=ガッシャーブルム(8,035M)、中央=ブロードピーク(8,047M)、右=チョゴリザ(7,654M)
番外編4、K2のベースキャンプよりK2(8,611M)を望む。
周辺地図
ルート図


ディラン登攀史(妖精の棲む山へ…)

第一話

中世の昔、数多の冒険者達が冒険の地を求めていた。彼らは、大海の果てに興味を持ち大航海時代へと突入した。東西を結び地を丸くした彼らが次に目指したのは極地であった。幾多の苦難の末、北と南の両極を征して満足したかに見えたが、そうではなかった。彼らの心を動かしたのは、高度であった。それは母なる大地の彼方にそびえ立つ山々であった。第三の極地、ヒマラヤである。

「ここは、ディランですよ。山も全部ディランですよ。
ラキが死んだ時、ブシが音を出した。だからその山をラキブシというのかね?
そうだよ、そこには妖精が住んでいるんだ。陽が暑く照るとあそこに煙が上がってくるが
あれは妖精がパンを焼いているところなんだ。天気がいい日の昼になると、
いつもそこに煙が上がるよ。いつもだよ。」吉沢一郎訳『カラコルムの夜明け』より

ディランは西部カラコルムに位置する山である。この山に最初に近づいたのは、1892年のM・コンウェイ隊である。コンウェイ等7人は、南面のバクロット谷を探検した。この時の様子を彼は、「この道の一番高いところあたりに、我々は、素晴らしいディラン峰を見上げられたはずであったが、今日は雨雲が上の方の風景を全部閉ざしていた。」と書いている。彼はこの時、この山の頂きに立つものがいると思っていただろうか?もしそれが可能だと考えていたとしても、ディランがその頂きに足跡を許すまでには、まだ数十年の年月が必要であった。

第二話

ディランはフンザ川の支流のミナピン氷河源頭に位置する。その為、ミナピンピークとも呼ばれている。また、地元の人々は隣接する鋭峰ラカポシとともにドゥマニ(真珠の首飾り)と呼んでいるようである。ミナピン氷河の水が注ぐフンザ川沿いの道はその昔、東西交流の道として栄えたシルクロードの一つである。

1902年にこの道を通ったおそらく最初の日本人、大谷探検隊はラカポシの写真を持ち帰っている。おそらくディランも見たに違いない。100年も前のパイオニアである彼らの目にこの山々がどのように写ったのだろうか?ミナピン氷河へは1906年に氷河探査の為インド測量局のヘンリー・ヘイドゥンが入ったのが初めてである。続いて1925年にはオランダ人のカラコルム探検家であるフィッサー夫妻が足を踏み入れている。この時、19年前にヘイドゥンが付けた氷河舌端の印を発見し、氷河の後退を確認した。同行のスイス人ガイドはそれを見て「逃げ去った氷河」と仇名を付けている。

ディランへの登山の挑戦はさらに30年後、1954年に始まる。その年、ドイツ・オーストリア合同のフンザ・カラコルム登山隊はラカポシ峰を目指して入山した。しかし、先に入山したケンブリッジ大学隊が登山の優先権を持っていた為、登山を断念した。隊員のうちマイヤーとツァイターの2人がディラン偵察に出かけた。詳細は明らかではないが、「たいした困難もなく近付ける山」と判断したようだ。しかし、その判断も氷河から見た印象だったようである。本格的な登攀が行われるには、更に時を待たねばならなかった。

第三話

1958年、ワール隊長率いる英国隊がミナピン氷河にやってきた。本格的にディランを登ろうという初めての登山隊である彼らは、3,760Mにベースキャンプを建設し、始めに氷河源頭部から一気に頂上に突き上げる北稜ルートを目指したが、偵察の結果、西稜ルートに変更した。西稜ルートは、ディランとラカポシを結ぶ標高6,000Mを超える稜線上のコルから頂上を目指すもので、アイスフォールやセラックに阻まれる上、雪が深く雪崩の危険も多く行動は難渋を極めた。

それでも彼らはそれらの困難を克服し稜線にたどり着き、更に西稜上を前進し、頂上まで標高差720Mの6,550M地点に第四キャンプを建設した。それまで積極的に登攀を続けてきた隊員の中からテッドとクリスがすぐさま頂上アッタクに向かった。おそらく、自信に満ちた足取りであっただろう。なぜなら、既に難所は突破され、それより上には、たいした困難な場所は見受けられなかったからである。二人は今だ誰もが足を踏み入れた事のない処女峰へ向かって行った。第四キャンプに荷揚げに上がった他の隊員が祈るような気持ちで見守る中、二人は頂上を被うガスに消えていった。そして彼らは二度と姿を見せなかったのである。

その後、1959年、今度はシュナイダーを隊長とするドイツ隊が英国隊と同じルートでディランに挑んだが7,000M付近で敗退した。これは地質調査に重点をおいたこの隊の性質によるものの様である。 次いで1964年、僅か2人のオーストリア隊がやはり前者と同じルートをとったが悪天候に阻まれ断念。十年前「たいした困難もなく近付ける山」と評された山は、その優美な山容と相まって気まぐれな天候で容易ならざる山のベールを徐々に脱ぎ始めたのである。

第四話

1965年、処女峰を射止めんとする日本人がやって来た。小谷隆一率いる京都府岳連カラコルム登山隊の十名である。彼らは6月5日にタカファリのモレーン上3,500Mにベースキャンプを建設、前の三隊と同じ西稜ルートをとった。相変わらず難ルートに悩ませられながら着実にキャンプをすすめ、24日に6,000MにC4を、26日には6,400Mにアタックキャンプを築き、翌27日に小山、土森の二人が頂上に向かった。しかし、この時もディランは気まぐれな天候で人間を翻弄する。2回のビバークで3日間にわたったアタックも頂上まで73M残して引き返さざるを得なかった。

7月に入り、再びアタックが試みられるが、C4が降雪に埋没しており断念。登山隊は16日、BCを撤収してミナピン氷河を後にした。ディランは午後からの天候悪化が特徴であり、下部が強い日差しの中にあっても頂上付近は必ずと言っていいほど雲の中にある。天気の良い日は妖精がパンを焼く、つまりガスが湧くこの山は、こうしてその頂きを処女地とし続けるのであった。

第五話

気まぐれな妖精の棲家も、ついに人間のものとなる時がやってきた。1968年、H・シェルをリーダーとするオーストリア隊は総勢三名というそれまでにはない少人数編成でミナピン氷河に入った。彼らの考えは、大人数が急峻な尾根に取り付くことを愚かな事とし、小回りの効く人数での速攻登山であった。当時、極地法が全盛の中、あるいは無謀との批判もあったかも知れない。しかし、彼らは実行する。

隊は8月3日、氷河の入口であるタカファリに到着し、そこからピストン輸送により3,980M地点にBCを建設した。その後、4,800M、5,700Mとキャンプをすすめ、6,200Mにアタックキャンプが建設されたのはBC建設後、僅か2週間後の事であった。勢いと言ってしまったら失礼だろうか。翌17日には腹までのラッセルを突いでピークを目指し、勇躍出発する。さしものディランも、この速攻に抵抗の隙を見い出せなかったのか、10時間の後、ついにその頂きを初めて妖精以外に明け渡したのである。1968年8月17日、初登頂される。

「頂上のプラと―にいると、地球から隔離されているようだった。」M・コンウェイが、この地を訪れてから76年後の事であった。彼ら(H・シェル、R・ゲスクルR・ピッシンジャー)の充分に鍛えぬかれた体力とテクニックを生かしたスピィーディーな行動は、単にディラン登攀という枠に止まらず、その後の登山の方向性を示すものでもあった。ともあれ、ディランは登られた。だがその後、バリエーション・ルートを目指すものもなく、妖精達は10数年間の静寂を楽しむのであった。

第六話

オーストリア隊の初登頂以来、11年間の静寂は1979年のスペイン隊によって破られる。第2登を果たした彼らは下山時、3名を雪崩によって失い、山行の幕を閉じる。第3登はスイス隊によって成された。その後、85年には国際隊、オーストリア隊が登頂に成功している。いづれも初登ルート、即ち、西稜よりのトレースであった。この間、僅かではあるがバリエーションからのアタックを試みたチームがあった事は余り知られていない。なぜならその試みは、ことごとく失敗にわっているからである。

ミナピン氷河源頭部から2,500Mの高度差、4,500Mの水平距離をもって頂上に突き上げる「北稜」がそれである。一見容易に感じられる程、シンプルなこの尾根は、取付きまでの10Kmという長さ、高度6,000M付近のナイフリッジ帯、上部のラッセルという困難さを実は持っているのである。この北稜に初めて挑んだのは、1981年・アルクトス・杉並山の会であった。5,740Mで日程切れの為下山を余儀なくされたこの隊は、パイオニアとして賞賛に値するであろう。なぜなら北稜の詳細なルートを後の隊に提供し、ともすると忘れられがちであったこの山に再び世界の目を向けさせたからである。各国のチームはこぞって北稜に向かった。

初登頂はもちろん、主だったルートがほとんど登り尽された感のあるヒマラヤに、未だシンプルなクライミングが可能な数少ないルート。しかも、未踏のルートなのだから魅力も大きい。しかし、妖精は執拗に拒むのであった。1986年に関西学院大学隊が満を期してミナピン氷河へ入る。若いメンバー中心の彼らは、エネルギッシュにキャンプを進め、核心部、6,000Mのリッジ帯(ゴジラの背)をも突破するが、6,300Mまでルートを延ばした所で、1名がスリップ、行方不明となり、おそらくは確実に手に入れかかっていた登頂を諦めたのであった。その後、北稜は未だ登られていないのである。

 「そこには妖精はいるのかね?」
 「雪の降る山には全部いるよ!」

妖精は次の登頂者を待っている。天気の良い日にパンを焼きながら…。

第七話(最終回)

関西学院大学隊の後、3年後の1989年、ディランは、登山ラッシュを迎える。まず、一番乗りは「東洋大学OB隊」(我々の登山隊です)が5月22日にタカファリ、3,500MにBCを設営、その一週間後、「弘前大学OB隊」が同じくBC設営。両隊とも未踏の「北稜ルート」に挑んだ。さらに、地元のパキスタン隊も入山したが「バラバラ、アバランチ!デインジャラス!(雪崩が多くて、危ない!)」と言って、すぐさま下山した。また、韓国隊も入り、彼らは未踏の「北壁」を目指すらしい。タカファリのベースキャンプはちょっとしたテント村が出来た。

韓国隊は北壁を試みるが、雪崩が非常に多く危険な為、「北壁」を断念し、「西稜ルート」に変更した。しかし、アタックに向かった2人が夜、ビバーク中に西壁からの雪崩に巻きまれ帰らぬ人となってしまた。捜索の協力をしたものの、どこに埋まっているのか、見当もつかない程の、大規模な雪崩であった。せっかく友達になれたのに…残念で仕方がなかった。結局、韓国隊は登山を諦めざるを得なかった。

我々東洋大学隊は、2回の雪崩で多くの装備と食料を失ってしまった。1回目は、6月13日、ディラン北壁上部からの大規模な雪崩で4,400MのC1が壊滅した。地形が様変わりするほどの規模で、ロープや登攀具はもとより、多くの物資を失った。幸い、C1には誰もいなかったので(前日まで、私とT先輩がいた)命を落とさなかっただけでも幸運だったかもしれない。2回目は、7月4日、北稜のコルからの雪崩で、4,800Mに再建した新C1を、またもや直撃。この時は、数人仲間がテント入りしていたが奇跡的にも自力脱出した。残った僅かな装備と食料で粘ったが、結局6,300M付近が最高到達点となった。理由はともあれ、力不足であったと思う。

弘前大学隊は、つわ者揃いであった。メンバー5人全員がヒマラヤ経験者で7,000~8,000M峰の登頂経験者が多くを占めた。彼らの体力、技術、スピードの速攻に、さしものディランも抵抗の隙を見い出せなかったであろう。1989年7月10日、腰までのラッセルをついて、1ビバークの後に弘前大学隊が北稜ルートより全員、初登頂という快挙を成し遂げたのであった。その後、1990年代(1995年頃だったかな?)にマジックマウンテン隊がミナピン氷河の裏側、南面のバクロット氷河より目指したが、登頂には至らなかった。それ以降の情報は知らない…(完)