自己紹介

山とお酒とパソコンが 大好きな56歳

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はじめに

この度は、『扉のページへようこそ!』の扉をノック(クリック)して頂きありがとうございます。このホームページを最初に公開したのが2001年3月ですから17年が経ちます。時代にあったデザインに!と思い、9年後の2010年に一回目の全面リニューアルを致しました。

その後8年が経ち(2018年)…以前より「再リニューアルしなきゃ!今度はスマホに対応したページに作り直さなきゃ!」と思っていました。しかし、ページ数がハンパなく、先延ばしになっていました。何たって全部で770ページもありましたから…。

しかし、これではいかん!と意を決し、作業に着手することにしました。気の遠くなるような2度目の全面リニューアル作業(しかも、スマホやタブレットに対応したレスポンシブWebデザイン)。ほんと毎日コツコツと気合で作業を続け 2018年4月16日、ついに全701ページの作業が完了し、無事公開することが出来ました。

仕事の空き時間にしか作業が出来なく、困難を極めましたが、皆様からの暖かい励ましや応援が力になりました。このホームページを見て下さっている皆様に、感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。

17年前、このホームページを公開した当初、見て下さる人は 兄弟や親友等10人程度だったと思います。しかし、今では日々のアクセス数は少ない時でも1,000を超え、多い時は3,000を越えることがあります。

気付けばトータル100万アクセスを突破していました。こんなにも多くの方々が見て下さっていると思うと、嬉しい反面 身の引き締まる思いがします。これからも私のHPに末永くお付き合いいただければ嬉しく思います。以下、僭越ながら自己紹介させていただきます。

PS.上の写真は、1994年8月(今から24年前)、飯豊連峰の胎内川東俣本源沢にてリードする私。初めて憧れの5級の沢(上級者向き)に挑戦した思い出深い山行。その後、ますます5級の沢に のめり込んでしまった私…。中年になった現在は、週に一度の仲間達とのボルダリング(クライミング)と無雪期は癒し系の沢へ、積雪期はマニアックな雪山へと ほぼ毎週のように出掛けています。

自己紹介

生年月日

1962年2月8日生まれ 56歳 男性  岩手県盛岡市 ペンネーム:酔いどれ

血液型

おっとり、おおらかで代表される典型的なO型

性 格

まじめでまぬけ、温厚で「癒し系」とよく言われる。世話好き。マイペース型人間。熱中すると止まらないが、たまに燃え尽きることも。特に子供と主婦層には人気。「ホンワカしてるよね!」ってよく言われる。

仕 事

自営(パソコンスクール)。リストラされたのをきっかけに39歳で一念発起し2001年12月1日起業、パソコンスクールむげんを立ち上げる。パソコンに悩む方々の為に自分が理想とする唯一無二のパソコン教室を作りたかった。ゆえに授業スタイルは、フルタイムで完全マンツーマン。しかも、超格安!(継続レッスン時、1時間1,500円)

起業して17年、現在では生徒数602名(2018年5月現在)。社名「むげん」の由来は、「無限」であり「夢現(夢の実現)」。無限の可能性に挑戦し、夢を実現させたい!そのような思いから命名。小さなスクールだが(全て私一人で運営)、岩手で一番たくさんの「ありがとう♪」をいただけるスクールを目指す。

好きなこと

①山に登ること(特に沢登りや岩登り) ②パソコンと戯れること。 ③お酒(特に日本酒)でほろ酔い気分になること。 ④読書

嫌いなこと

人と争うこと。だからスポーツでも競争は嫌い。喧嘩、口論大嫌い!

至福の時

仲間と山(沢)で焚火を囲みながら乾杯している時。スクールの生徒さんが喜び、感動してくれた時。人を育て成長してくれた時。

思 想

スティーブン・R・コヴィー、中村天風、松下幸之助、小林正観、Dカーネギー、船井幸雄、福島正伸、飯田史彦、斎藤一人 etc

食べ物

嫌いなものはこれといってなし。日本国中の山をほっつき歩き、地元の名産物を食べるのも楽しみ。お刺身と日本酒(地酒)には目がない。概して納豆やカレーライスなど庶民的な食べ物が好き。でも、山の空気が一番かな!

服 装

無関心。やっぱりジャージが似合うねっ!てよく言われる。

スポーツ

山歴はかれこれ35年。20歳の時に某先輩に騙され?目覚める。縦走、ヤブ山、雪山、岩登り、沢登りなど自然と戯れるのが大好き。中学、高校時代の6年間はテニス部。しかし才能開花せず、山への道へ180度方向転身することに…。

PS.上の写真は岩手への帰省後、頻繁に通った岩手を代表する岩場、岩泉ひょうたんケイブの看板ルート、亀屋万年堂5.11cを登る私。7回目のトライでやっと登れた。

学生時代

中学・高校時代は、スポーツ漫画「エースをねらえ!」に憧れテニス部に入部、6年間夢中になるが才能開花せず。高校卒業後、大学進学のため憧れの東京へ!

大学時代は、山岳部に入部。しごかれつつ、山の楽しさと厳しさを学ぶ。アルバイトでお金が溜まると直ぐに全国あちこちの山を放浪。とにかく全国色んな山に登りたかった。

北アルプス全山単独縦走(全泊テント)、中でも南アルプスの山が大好きで、四季問わず頻繁に通う。また、周遊券を利用し北海道に約一ヶ月滞在し大雪山全山縦走、利尻山等。その他、四国や九州の山にも行ったっけ。

すっかり山の虜になった。自分の知らない世界を知る!ということの楽しさを知った。また、日常生活とかけ離れた山での生活も楽しくてしょうがなかった。一つの山行が終わると、次どこへ行こうか?と常に考えていた。経験する全てが新鮮で、もっとたくさん色んな経験したい!と、いつも頭の中は一杯だった。PS.上の写真は、学生時代の南アルプスでの夏合宿にて。一番右にいるのが私。ザックの重さは50キロ。

社会人 そして、夢のヒマラヤへ

大学を卒業し、工業用温度計(熱電対)のメーカーに就職、東京支店営業部に配属。私にとって会社選びの基準は、「やりたいこと」よりも「休みの多い会社」であった。なぜなら、山へ行きたいから。社会人になっても毎週のように山通いが続く。一生懸命働くのも有給休暇を頂戴し山へ行きたいから。

就職して2年後のこと、大学時代の先輩からヒマラヤ遠征の話が持ち上がり参加を表明。遠征の1年前に退職、大手運送会社に住み込みで働き遠征資金を貯める。ヒマラヤへ行けたのは、一重にこの会社のお陰(かなり融通を利かせていただいたこともあり、人の数倍 働いた)。また、社員の皆さんやパートのおばちゃん達にたくさん応援していただいた。

「お前、遠征資金を貯めるので大変だろ!これでも飲んで元気を出せ!」って、お酒をたくさん頂戴したり、食事をご馳走になったり。会う人皆に「頑張れよ!応援してるぞ!」って激励していただいた。遠征までの一年間、毎日最低10キロのランニング、腕立て伏せ300回、腹筋600回を日課にしていた。遠征出発前、会社挙げての大壮行会を催してくれて嬉しかった。私は単なるアルバイトの身なのに…。さらに、感動したのが、パートのおばちゃん達が私に内緒で、1年もの間、募金活動をしてくれていたようで…。壮行会の贈呈式の席で たくさんの大きなビンを頂戴した。その中には10円、50円、100円玉がギッシリと詰まっていた。「これ、皆の善意(愛情)よ!遠征の足しにして。必ず生きて帰ってくるのよ!」って。このサプライズに 感動のあまり涙が出た。そうそう、バレンタインディーの日、職場の皆さんからチョコレートを山のようにたくさん頂戴した。この数の記録は、未だに破られていない。

1989年 28歳の時、大学時代のOBと現役の総勢7名でパキスタン・カラコルム山群のディラン峰(7,257m)へ遠征。当時未踏だった北稜ルートからの初登頂を目指した。2度の雪崩に遭い、結果 力及ばず、登頂できなかった(「ヒマラヤの扉」に記載)。

一度目の大規模な雪崩時、前日までそのキャンプ(C1)にいた私…。先輩が重度の高山病に陥りベースキャンプに降ろしたお陰で命拾いした。二度目の深夜の雪崩でメンバー4名が埋まったが、どうにか自力脱出、登攀具や食料の多くが流され、これ以上 続行無理!と隊長命令が下り登頂を断念。もう少しだったのに…。悔しかった反面、ホッとしたことを覚えている。この遠征で10K痩せた。

山だけでなく、パキスタンという国も衝撃的だった。初めての海外がパキスタン(ヒマラヤ)だった私…。何もかもが 日本とは異なり新鮮で驚くことばかりだった。政治や経済だけでなく、人々の考え方、価値観がまるで違うのだ。この遠征の三ヶ月間が、私の人生を大きく変えた。「もっと世界を知りたい!よし、帰国したら世界を相手に仕事をするぞ!」と心に誓った。成田空港に降り立ち、緊張感がほぐれたのか?立っているのもシンドイほど疲労を感じた。電信柱に掴まりながら、どうにかアパートに辿り着いたのを思い出す。そらから約一ヶ月、寝たきり状態となった。「一日も早く再就職活動しなければ…」と思うも体が動かなかった。PS.上の写真は、そのヒマラヤにて私。

再就職とバブル

1989年後半、体調が回復した後、再就職活動に励む。時はバルブ期(衰退し始めの頃)、念願叶って世界を相手に仕事が出来そうな会社、建設機械メーカー(東証一部上場)に再就職、東京本社 配属はもちろん念願の海外部。そして、完全週休二日制。

私の主な仕事は、海外向け建設機械部品の世界130カ国 担当窓口(部品の見積りや受注、問い合わせ、クレーム、通関書類の作成などの輸出業務)。英語(主に読み書き)だけは何故か得意だった。当時は、まだ国際電話は高く、パソコンやインターネットの無い時代、主にFAXでのやり取りが多かった。

意気揚々と入社したものの激務で大変だった。毎月100時間以上残業する日々が三年ほど続いた。もちろん、山へ行く暇さえなく…。私の山人生唯一の「空白の三年間」となった。激務過ぎてはじめて胃潰瘍になった。入社当初、部長に呼ばれ「君の使命は、この部署を立て直すことだ!これまでたくさんの人が激務に耐え切れず辞めた。君は、ヒマラヤを登ったほどの人だから、根性があると思い採用した。頑張ってくれ!期待してるぞ!」と。そう、私は「根性」だけで採用されたのだった。し、し、知らなかった…。

業務を改善するにはコンピュータしかない!と思い、コンピュータに強い関心を持ち勉強した。「墓場」とまで言われた部署だったが、三年間の必死の努力が実り「お花畑」に変えることが出来た。さらに、バブル期だったこともあり残業申請が認められていた。毎日(休日も)朝から晩まで(ビルが締まるまで)仕事に励み、夜はアパートに帰って寝るだけの日々。お金を使う暇もなく、溜まる一方で気付けば貯金が凄いことになっていた(これが後ほど、開業時に役立った)。部署がお花畑に改善、バブルも崩壊し激務も緩和され、いつしか定時で帰れるようになった。その分、給料は減ったが、週末は休めるようになり、やっと山へ行ける環境になった。

沢登りに目覚める

実は、ヒマラヤから帰国後、山に関して「燃え尽き症候群」になっていた。次は「どんな山登りを目指せばよいのか?」が、分からなかったのだ。ふと「そうだ、私はまだ沢登りの世界を知らない!」と閃いた。実は、学生の頃、一度OBに連れられ奥秩父の沢へ行ったのだが、恐い思いをし、それ以降 沢登りが嫌いになったのだ。

しかし、時が解決してくれたようで「今一度、挑戦してみよう!」という気持ちになれた。仕事も一段落し、やっと山(沢)へ行けるぞ!と思ったものの、私の周りには、岩登りする人は大勢いたが、なぜか沢登りをする人が誰一人いなかった。1992~1993年頃の話である。

「沢登り」という自分にとって新たな(新鮮な)世界にワクワクした。簡単な沢なら単独でも行けるだろう!と軽い気持ちで、白山書房の『東京周辺の沢(沢登りガイド本)』に記載されている 「まずはグレード1級の沢から足慣らし兼ねて片っ端に遡行してみよう!」と思い立った。そして、毎週のように丹沢や奥多摩、奥秩父の沢へ通った。1級の次は、1級上、さらに2級、3級と。

ところが…稜線へ出る最後のツメで間違えヤブ地獄にハマること数知れず…。いわゆる きちんと読図が出来ていないのだ。また、滝を登っていて途中で行き詰ったり…恐い(危ない)経験をたくさんした。自分の未熟さを嫌というほど思い知った。それでも「一人前の沢屋」になりたくて諦めずに通った。

毎週のように単独で沢へ通っていると、沢で偶然出会った人と仲良くなり、また一緒に遡行する機会も増え、良い勉強をさせて頂いた。いつしか単独での遡行に限界を感じ、社会人山岳会に入ることを決意。ある日のこと、奥秩父の豆焼沢へ複数の山岳会での合同山行に参加。その時、滝をまるで岩に舞う蝶のごとく華麗に登るA先輩の姿に魅了され「いつか、自分もあのように登りたい!」と憧れ、フリークライミングに興味を抱く。

私は、壮大な目標を立てた。「今から5年以内に5級の沢(本州最難関の沢)行く!しかも、連れてってもらうのではなく、自分がリーダーとして行くのだ!」。まだ沢登りを始めて日が浅く、1級の沢すらおぼつかない私…実現不可能、無謀と思われるかもしれないが、私は真剣そのものだった。

それから狂ったように沢へ通った。特に1993~1997年当時は、まさに全盛期!年間平均遡行本数は50本、廻りからは「沢キチガイ」と言われた(冬もウェットスーツを着て遡行)。それと並行して、フリークライミングにもハマった。平日は仕事帰りにクライミングジム(パンプⅡ)に仲間と通い、冬場は、幕岩や城ヶ崎海岸へと岩登りに通った。ほんと良き仲間、先輩後輩に恵まれたと思う。

そして、目標を立てて4年が経過した1996年8月(予定より一年早い)、いよいよ5級の沢をリーダーとして遡行する日が来た。夢が実現する日が来たのだ。この日のために徹底的にトレーニングを積んできた。このメンバーなら、多少の悪条件でも遡行できる自信があった。

目指すは、北アルプス黒薙川北又谷本谷(日本を代表する名渓で5級の沢)!我々の計画は、北又谷を遡行し犬ヶ岳までツメ上げ、その後、親不知の日本海まで縦走するというもの。天候にも恵まれ、楽勝(かなりの余裕)で完全遡行を果たすことが出来た。私の計画に付き合ってくれた仲間に感謝!夢が叶った後も、私の沢と岩場(クライミング)通いは続いた。無雪期は沢へ、積雪期は岩場へ。仕事も山もプライベートも充実した日々を過ごしていたと思う。

PS.上の写真は、その北アルプス黒薙川北又谷本谷にてリードする私。ビレーは当時大学生だったI君。下の写真は、翌1997年8月に行った利根川本谷(5級)の大滝をリードする私。

人生の転機

1997年4月のこと、「父が倒れた!明日まで持つかどうかわからない、今直ぐ実家に帰れ!」との緊急電話が…。何がなんだか分からないまま、新幹線に飛び乗り帰省。その2週間後、父は63歳の若さで亡くなった。死因は、脳梗塞だった。

東京での暮らしは、公私共に充実していたが「いつかは、郷里岩手に戻って暮らしたい!」と、思っていた。当時私は35歳、岩手にUターンしても まだ転職できる可能性はある。年齢的にこれが最後のチャンスかもしれない。母のことも心配だった。父の死は、私を岩手に戻らせる大きなきっかけになった。

ただ、それには大きな決断が必要だった。会社を辞めなければならない。これまで培った山仲間とも別れなければならない。当時 婚約していた彼女とも別れるハメになるかもしれない…などなど。失うものが あまりにも大き過ぎた。しかし、私は決断した。岩手に戻ろう!と。18年間 過ごした東京ともおさらば!1998年2月、岩手での再就職先も決まり、再スタートを切った。第二の人生、仕事、山仲間作りなど、まったくゼロからのスタート!岩手での生活は、東京とは何もかもが違い、苦しいことも たくさんあったが、自分で決めた選択(人生)なのだ。頑張るしかない。

岩手で再スタート(山編)

岩手に戻ってきた当初、当然ながら山仲間は誰もいなく、毎週のように単独で山に沢にと通った。そんな時、下山後毎週のように「お山の湯」で会う大工の棟梁 Nさんが、岩手における山の大御所・北上のS先生を紹介してくれた。心優しいS先生は、毎週のように沢に付き合ってくれた。S先生の山の人脈は物凄く、直ぐにたくさんの山仲間が出来た。S先生は、私にとって大恩人である。岩手に戻って孤独だった私が、どれだけ元気付けられたことか…。

私が東京で培った沢の経験と技術が、少しでも岩手の山仲間の皆さんにお役に立てれば…との思いから、沢の啓蒙活動を積極的に行った。いわゆる「岩手における沢登りの普及活動と沢屋倍増計画」である。その他、山岳レスキュー講習会の講師なども率先して務めた。

今では、毎年恒例となっている「岩手沢屋交流会」を行うようになったのも「沢屋の普及」と「恩返し」の気持ちからである。これまで長きに渡り沢屋交流会を継続できたのは、一重にRAMの代表であり岩手の重鎮 Sさんらのご協力があったればこそ。感謝の気持ちで一杯である。岩手の山屋さんは、皆 愉快で優しくていい人ばかりだ。たくさんの山仲間が出来「岩手に戻って来てよかった!」と心から思った。これも全てS先生のお陰である。感謝に堪えない。

岩登りの方も東京時代に何度か岩場でお会いした髭のKさんとの再会があり、意気投合した彼と週三~四回のクライミングジム(みたけの運動公園)通い。週末は、頻繁に岩登りで地元岩手の岩場、岩泉のひょうたんケイブに通った。石灰岩のどっ被りの岩を登るのは、初めての経験。初めはさっぱり登れなかったが、しつこく通っているうちに5.11レベルはオンサイト狙い、5.12レベルはレッドポイント狙いで登れるようになった。

現在千葉県にいるC夫妻にも大変お世話になった(パソコンスクールむげん立ち上げ時、第一号の生徒さんにもなってくれた)。連休時は一緒に、秋田の三崎海岸、山形の山寺、福島の青葉の岩場を登った。お正月休みは、埼玉の二子山や静岡の城ヶ崎海岸や城山にも遠征した。岩手に戻って感動したこと…岩登りでも沢登りで順番待ちがない!(空いている)会う人、ほとんど皆 仲間か知り合いである。岩手で新たに たくさんの山仲間が出来たことが嬉しかった。PS.上の写真は、その「沢屋交流会」にて。八幡平焼山、中ノ沢湯ノ沢 にて参加者総勢28名。

岩手で再スタート(仕事編・起業)

一方、仕事の方は、中途採用で期待されて入社したものの、さっぱり営業成績を伸ばせず、苦境に陥っていた。入社して2年後のある日、突然のリストラ勧告!寝耳に水でビックリした。当時は、恨んだりもしたが、今ではとても感謝している。リストラしてくれたお陰で起業する決意が出来たのだから…。いつかは起業したい!との思いは20代の頃からあった。でも、何で起業して良いのか?分からなかった。

2000年4月、リストラされた後、気分転換にとタイ王国のプラナンへ後輩と共にクライミングしに行って来た。ヒマラヤ遠征以来11年振りの海外遠征で夢のような楽しい10日間だった。その時の記録は、「タイの扉」に記載。

帰国後、山仲間の紹介で次の仕事が決まるまでの間、紫波町教育委員会に雇用されパソコン教室の講師のアルバイトをすることになった。当時、森内閣のIT戦略の一環(e-Japan構想)で、日本国民がパソコンのスキルアップの為に12時間無料で講習を受けられるという国の制度である。

紫波町にある各公民館を廻り20代から80代まで、たくさんの人にパソコンを教えた。それが「とても面白くて分かりやすい!」と大好評で、自分でもビックリした。元来 私は人を育てるのが好きだったし、パソコンも大好き!「これはいけるかも!」と思った。それがきっかけでパソコン教室で起業する決意を固めた。9ヶ月間、準備期間とし「岩手起業家大学」で福島正伸先生から起業家の心構えと経営を学んだ。

福島先生から学んだ十か条は、今も私の座右の銘である。①まずは私がやる、先頭に立つ ②ピンチはチャンス、前向きな言葉のみを使う ③問題あるところに生きがいを見出す ④手法は100万通り、あきらめない ⑤何気なくやらない、人のためにやる ⑥人を信じ夢を信じる ⑦最大の困難に笑顔で挑む ⑧他人とは感謝で付き合う ⑨人生のすべてを楽しむ ⑩最大の報酬は感動の涙。

2001年 パソコンスクールむげんの起業時、母と兄に「会社を作ろうと思っている!」と相談したところ「お前、気でも狂ったか!」と散々反対された。そこで、バブル時代に三年間死に物狂いで稼いで貯めた通帳を見せた。「現在、これだけお金がある!(通帳の金額を見て母も兄もビックリ)母にも兄にも絶対に迷惑はかけない!この貯金が尽きるまでは、やらせて欲しい、どうか見守って欲しい!」と懇願しOKしてもらった。

フランチャイズは まったく眼中になく、自分で思うように経営してみたい!と当初から思っていた。盛岡はパソコン教室(スクール)の激戦区!大手がたくさん進出している。そんな中で個人経営の小さな教室が、生き残っていくためには「差別化」しかない!盛岡市内のたくさんのパソコン教室へ視察に行った(無料体験を利用して)。自分が生徒の立場だったら、どんなスクールに通いたいと思うか?徹底的に考えた。そこで思い付いたのが、「フルタイム完全マンツーマン」であった。17年前の当時は、パソコン教室の全盛時代、ビデオ授業が流行り、私の知る限りでは 盛岡市内で全コース完全マンツーマンで教えるスクールは存在しなかったと思う。

面白いもので、ほんと色んなご相談や依頼があった。医学論文の作成の手伝いをしたり、始末書や詫び状を一緒に考えながら作ったり、企業の業務効率化推進の為にエクセルを駆使してたくさんの関数を組んだり、病院関係の資料を作ったり(看護師さんなど、病院関係の生徒さんが多いのも特徴)。チラシやホームページもたっくさん作ったっけ。他のスクールでは絶対に教えないであろうフリーソフトの使い方もたくさん教えることも出来た。パソコンの不具合など様々なトラブルにも即効で対処し、感謝の言葉もたくさん頂戴した。自分が出来ることは頑張って勉強し、少しでも生徒さんのお役に立ちたいと奮闘してきた。

当スクールの特徴は、仕事などで必要な書類を実践的に作りながら学べる所。完全マンツーマンゆえ、生徒さんとも仲良くなり、時にはお悩み事や人生や仕事の相談、恋愛相談を受けることも数多くあった。他のスクールと違って、たくさん通ってもらおう!という気持ちは薄く「必要な時、困った時に、来てくれれば それでいいですよ!」と、生徒さんには言っている。それが功を奏してか?多くの生徒さんと長いお付き合いをさせていただいている。生徒さんに喜んでもらえることが、私の生きがいになっている。あれから17年…生徒数が600名を越え、当初起業には反対していた母も兄も 今では心から応援してくれている。特に母には感謝!この仕事が、生徒さんとの触れ合いが 毎日エキサイティングで面白くて堪らない!まさに私の天職だと思っている。

そして、現在

2018年現在、56歳になった私…若かりし頃のように厳しい山や沢に行くには危険を感じる年齢になったかも知れない。数年前、山岳ガイドの仕事を辞めた。正直、体力・技術の衰えは否めない。頑張れる範囲で地元岩手と隣県の秋田を中心に沢登りと雪山、そしてクライミング(現在 岩登りへ行かなくなり、もっぱら室内のボルダリングのみ)を自由気ままに楽しんでいる。

最近では、あまり遡行記録のない沢の開拓や積雪期限定のバリエーションルートにハマっている。もちろん、本業のパソコンスクールも毎日楽しく仕事している。あと何年山登りを続けられるか?わからないけど、体が動くうちは身の丈にあった独創的な「自分なりの山登り」を追求し、楽しみたいと思っている。

岩手に戻り早いもので21年が経過した。あの時の(岩手に戻る)決断は、間違えていなかった!と確信している。岩手は本当に素晴らしい所だ!と改めて思う。

改めて自分の人生を振り返り「繋がってるなぁ~!人生に無駄はないんだなぁ~!」って思う。50代は人生の折り返し地点、いったん立ち止まってこれまでの人生の棚卸しをし、今後の人生をどう生きるか?目標を定め、その準備を始める大事な時期なのかも知れない。私の大好きな名言(座右の銘)を紹介する。「一日、生きることは 一歩 進むことでありたい!」湯川秀樹(ノーベル物理学賞 受賞者) 最後までお読み下さり、ありがとうございました。

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